組手不要論からの訣別:実体験が私に突きつけた合気道のリアル 実戦合気道覇天会・藤崎天敬師範に聞く 第五部
かつて、私は「合気道に組手は不要である」と固く信じていた。小学2年から10年間捧げた稽古は、厳格な型稽古こそが全てであり、組手は禁忌とさえされていた。自由な攻防など存在せず、むしろ「組手なくして強くなれる、特別な武道」という一種の特権意識すら抱いていたように思う。
だが、心の深層には常に渇望があった。「もっと巧くなりたい、もっと強く」。その渇望を満たす道筋は、当時、多様な解釈で示されていた。突きや蹴りといった「当て身」の探求、剣や杖などの武器術の研鑽が主流ではあったが、中には経典の読解、開祖・植芝盛平先生の道歌の研究、あるいは目に見えぬ「気」の鍛錬といった、より精神的、内面的なアプローチも存在した。いずれにせよ、「組手」という選択肢は、当時の私の思考の枠組みには全く存在しなかった。合気道の型に秘められた合理的な動きが、自由な攻防においても必ずや有効に機能するはずだと、疑いもしなかったのだ。
しかし、その確信は、ある日、あまりにも脆く崩れ去った。以前にも触れたが、街中で不意に絡まれ、胸ぐらを掴まれた瞬間、10年間練磨したはずの合気道の技は、指一本動かせなかった。反射的に我が身を守ったのは、わずか3年の稽古の後、数年のブランクがあった柔道の、体に染みついた動きだったのだ。
「型を極めれば、組手なくとも、いざという時に体は自然と動く」。師の教えを、私は金科玉条のごとく信じていた。だが、現実は非情だった。「動かない」合気道。型稽古という閉じた世界での反復が、予測不能な現実の暴力の前では無力であるという事実を、私は骨身に染みて思い知らされた。
振り返れば、柔道では常に乱取りを通じて、生きた相手の動きを感じ、崩し、投げる、その実践的な応酬を繰り返していた。だからこそ、咄嗟の場面でも、相手を制する確信があったのだ。この苦い実体験は、私に合気道における組手の必要性を痛切に突きつけた。型稽古だけでは決して到達できない、生身の人間との接触の中で培われる感覚、反応、そして技の錬磨こそが、合気道を真に「使える」ものにする不可欠な要素なのだと。頭での理解がいかに浅薄か、身をもって知ることの重要性を、これほど痛感したことはなかった。
当て身に対する認識も、また別の経験によって覆された。重要だと教えられ、来る日も来る日も100回の反復を欠かさなかった突きや打ち。それが、テコンドーを習う友人との軽いスパーリングにおいて、全く通用しなかったのである。合気道の当て身は、単発で、予備動作が大きい。俊敏なフットワークを持つ相手には、容易に見切られ、空を切るばかり。実際、私の大振りな打撃はことごとくかわされ、逆に鋭い蹴りを浴びる始末だった。形式的な反復練習だけでは、実戦的な打撃の応酬には対応できない。本格的な打撃練習の必要性を、私はこの時、強く認識した。これもまた、道場の畳の上だけでは決して得られなかった、生々しい現実からの学びであった。
当時の合気道界には、「争わない武道」という理念が強調されるあまり、「組手は危険すぎる」「そもそも物理的に不可能」といった風潮が根強く存在した。私自身、組手とは命がけの荒行のような、特別な覚悟を要するものだと、どこかで思い込んでいた節がある。しかし、いざ勇気を出して組手稽古に足を踏み入れてみると、想像していたような危険性は皆無であり、ごく自然に訓練が行えることに驚いた。
※組手は普及している一般的な武道・格闘技と同等の危険性はあるが、けっして命がけの荒行ではなかった。
これもまた、先入観や伝聞がいかに頼りないか、自らの体験こそが真実を映し出す鏡であることを、私に教えてくれた。
さらに当時は、「合気道は型で練り、組手は他の武道で補えばよい」という考え方も一部で囁かれていた。他武道の組手経験を応用すれば、合気道も使えるようになる、という理屈だ。
これも一時期は信じていた。だが、柔道経験があっても、合気道の組手がすぐに上手くなるわけではなかった。当然だ。土俵が違えば、戦い方も変わる。冷静に考えればおかしな話だ。例えば、柔道家が打ち込み稽古だけを行い、乱取りの代わりに相撲の稽古ばかりしていたらどうなるか?
上達するのは相撲であり、柔道の試合で勝てるようにはならないだろう。合気道も同じだ。合気道の特性に合わせた組手を行わなければ、合気道の技が使えるようにはならない。
この種の誤解は、残念ながら現在でも見られる。合気道の技術向上を目的とした専門的な組手が存在するにもかかわらず、なぜか他武道のルール、それも合気道技が「一部許容される」に過ぎないルールでの練習を推奨する声がある。例えば、打撃主体の拳法や空手のルールで、部分的に合気道技が認められている場合を考えてみよう。そのルールの主眼はあくまで打撃の攻防であり、合気道ではない。打撃を伸ばすためのルールの中で、合気道技は従属的な扱いだ。型稽古しか知らない合気道家がそのルールで必死に練習しても、上達するのは打撃であって、合気道の技ではないだろう。そのルールが打撃向上を目的としている以上、それは当然の帰結だ。専門的に行う組手と、一部分だけ許容されるルールでは、その意味合いは全く異なる。伝統空手の組手に足払いがあるからといって、打ち込みしかしない柔道家が、柔道の乱取りの代わりに伝統空手ルールで練習しても、柔道の投げ技が上達しないのと同じ理屈である。
もし、あの街中での苦い経験、友人とのスパーリングでの完敗、そして組手に対する誤解が解ける体験がなかったなら。私はおそらく、何の疑問も抱かぬまま、伝統派合気道の指導者として、型稽古と形式的な当て身指導に終始していたかもしれない。あるいは、道歌の研究や「気」の探求といった、組手とは異なる方向性に深く傾倒していた可能性もある。
もちろん、合気道の持つ文化的な深みを探求する上で、道歌の研究などが無意味だと言うつもりはない。それはそれで価値ある探求だ。しかし、「護身」という現実的な要求に応えるという観点に立った時、それらは直接的な接触を伴う組手訓練とは、どうしても距離があると言わざるを得ない。合気道という多面的な武道が持つ、異なる側面と捉えるべきなのだろう。
これらの衝撃的な実体験と、先入観が打ち砕かれた経験があったからこそ、私は組手と実戦的な打撃訓練という新たな地平を求め、現在の指導スタイルを確立することができた。身をもって体験すること。それこそが真実に至る唯一の道であり、揺るぎない信念となっている。そして、護身という切実なニーズに応えるためには、合気道においても組手訓練は不可欠であると、私は今、確信している。
未経験者の方も歓迎したい。組手は、決して恐ろしいものではない。むしろ、楽しく、自らを大きく成長させてくれる、かけがえのない稽古なのだから。