「演武は、時に人を強く惹きつける。だが、その輝きだけに目を奪われてはならない。武道としての可能性は、もっと広く、深いのだ。」
打撃、そして試合。「実戦」の二文字を掲げ、既存の合気道界に一石を投じる実戦合気道覇天会。その代表、藤崎天敬師範は、長年、武道の真髄を探求し、後進の指導に情熱を燃やしてきた。今回、我々が師範と共に深く掘り下げるテーマは「演武の功罪」。観る者を魅了する美しさの裏に隠された実用性の真実とは? そして、一人の合気道ファンとして抱く、現代の演武に対する懸念と未来への期待。多角的な視点から、合気道と演武のあるべき姿を探っていく。
まず、藤崎師範が一流と評される演武にどのような印象を抱いているのか、尋ねた。
藤崎天敬師範: 「真に優れた演武には、心を鷲掴みにする力がありますね。長年の厳しい修練によって磨き上げられた身体操作、滲み出る武道家としての精神性。それは、さながら**アルコール度数の高い上質な蒸留酒のようです。深く、馥郁(ふくいく)たる香りと味わいは素晴らしい。しかし、その芳醇さに酔いしれ、本質を見失えば、翌日には痛い二日酔いを招きかねない。ある種の危うさも孕んでいると感じます。**他流派であっても、一流の師範方の演武からは、常に深い感銘と学びを得ています。」
しかし、その言葉には、称賛だけではない複雑な陰影が伴う。かつて自らも演武に取り組んだ経験を持つ師範は、その限界と危うさを痛感しているという。
藤崎天敬師範: 「私自身が演武を行うとしても、それは基礎的な理解を示すレベルに留まります。私の主戦場はあくまで組手ですから。演武が武道の普及に貢献する側面は否定しません。しかし、現実には『演』じる側面が肥大化し、実戦という根幹から乖離した、単なるショーパフォーマンスと化しているケースが散見されるのも事実です。率直に申し上げて、演武の中には、その八割、九割が見せるための演出であり、武道の本質からは程遠いと感じ、疑問符が付くものも少なくありません。」
実戦合気道を標榜する師範にとって、「演」と「武」の適切なバランスは、決して譲れない一線だ。
藤崎天敬師範: 「武道の根幹は、あくまで相手を制圧するための『武』の技術です。演武が華やかさや流麗さのみを追求するあまり、その本質が霞んでしまうことを危惧しています。美しさも武道の一要素ではありますが、それが実用性という本来の目的を凌駕してしまっては本末転倒です。特に、我々のように実戦的な稽古を重視する立場から見ると、演武の美しさだけを追い求める姿勢が、実戦での有効性を見誤らせる危険性を孕んでいると強く感じます。」
「演武に実戦での有効性は基本的にない」――師範はそう言い切り、両者の決定的な違いを強調する。そして、議論は合気道の稽古体系における二つの柱、「約束組手」と「自由組手」へと深化していく。
藤崎天敬師範: 「演武は、基本的に決められた手順、予定調和の世界で行われるものです。いつ、どこから、どのように攻撃が来るか分からない実戦とは、全く次元が異なります。合気道が本当に『戦える』のか、その真価を知るには、組手や試合といった、より実戦に近い稽古に目を向ける必要があります。そこには、演武のような洗練された美しさとは対極にある、泥臭くとも実用的な技術、予測不能な生きた攻防が存在します。空手や柔道では、型(演武)と組手(実戦)は明確に区別され、それぞれ独立した価値を持っています。しかし、一部の合気道においては、演武の巧みさ自体が、あたかも戦闘能力の証明であるかのように捉えられがちです。これは非常に憂慮すべき状況と言えるでしょう。」
ここで師範は、合気道の稽古における「約束組手(型稽古)」と「自由組手」の本質的な違い、そして実戦への接続について、より具体的に解説する。
藤崎天敬師範: 「合気道の型稽古、いわゆる『約束組手』は、定められた動きを反復することで、体捌きや技の理合といった基本を身体に染み込ませる上で、極めて重要です。しかし、それはあくまで『決められた状況下』での練度を高めるもの。一方、試合や実戦を想定した『自由組手』では、相手の予測不能な動きに対し、瞬時に判断し、臨機応変に対応する能力が不可欠となります。空手や他の格闘技の世界では、約束組手だけをどれほど繰り返しても、自由組手で戦えるようにはならない、というのは常識です。合気道も、この点において全く同じなのです。」
師範は、自身の豊富な指導経験に基づき、約束組手偏重の稽古がもたらす現実を語る。
藤崎天敬師範: 「これまで、演武を中心に稽古されてきた有段者の方々と、30~40名ほど手合わせする機会がありましたが、そのほとんどが、初めて経験するであろう『自由な攻防』に戸惑い、為す術がありませんでした。約束された状況下では流麗な技を繰り出せるのかもしれませんが、いざ予測不能な攻撃に晒されると、思考が停止し、体が硬直してしまう。あるいは、自身の得意技に固執し、状況に応じた変化が全く見られない。もちろん、中には体格に恵まれていたり、他の武道経験から多少動ける方も数名いましたが、それでも『組手』や『試合』として成立するレベルには程遠いのが実情でした。約束組手は、武道の根幹を成す重要な土台です。しかし、それを実戦で活きる力へと昇華させるためには、自由組手を通じて、多様な状況への対応力、すなわち『応用力』を養う稽古が絶対に不可欠なのです。」
ここでインタビュアーは、一人の合気道演武ファンとしての率直な疑問を投げかけた。「近年の合気道演武は、どこか世界観が画一化しているように感じられます。特に若手の指導員の先生方の動きが似通っており、かつてのように、指導者それぞれの個性や哲学を前面に押し出した、多様な演武が少なくなっているのではないでしょうか。もっと大胆にご自身の合気道観、例えば『気と捌き』、『当て身とキレ』、あるいは『芸術性』といったテーマを演武で表現しても良いのではないかと感じています。」
この問いに対し、師範は深く頷き、自身の見解を示した。
藤崎天敬師範: 「非常に重要なご指摘だと思います。私も、演武はもっと自由で、多様な表現が許される場であるべきだと強く感じています。かつては、おっしゃるように、指導者それぞれの持ち味――卓越したキレ、流れるような柔らかさ、気を前面に出した表現、高い芸術性、重厚な固さ、鋭い当て身、華麗な捌き――といった、個々の合気道観が色濃く反映された、個性豊かな演武が数多く存在しました。それは観る者にとって大きな刺激であり、合気道の多面的な魅力を知る貴重な機会となっていたはずです。」
藤崎天敬師範: 「現代の演武に画一的な傾向が見られるとすれば、それはもしかすると、基本から逸脱することへの恐れや、過度な独創性への無言の抑止力が働き、結果として『無難』で均質な型の再現に留まってしまっているのかもしれません。もちろん、武道において基本は揺るぎない土台です。しかし、その土台の上に、自身の稽古で掴み取った感覚、独自の解釈や哲学を大胆に表現することこそ、演武の持つもう一つの重要な価値だと考えます。インタビュアーの方がおっしゃるように、『気と捌き』に特化した演武、『当て身の有効性』を追求した演武、あるいは舞踊のような芸術性を高めた演武など、もっと自由な発想があって然るべきでしょう。」
藤崎天敬師範: 「僭越ながら申し上げるならば、演武は、技術レベルの提示であると同時に、演者自身の合気道に対する探求心、情熱、そして哲学を表現する舞台でもあるはずです。若手の指導者の方々には、確立された基本をしっかりと踏まえつつも、決して萎縮することなく、ご自身の信じる合気道観を自信を持って演武に投影し、新たな可能性を切り拓いていってほしい。そう切に願っています。それこそが、停滞しかねない合気道演武の世界に新たな風を吹き込み、多様な魅力を再び輝かせる原動力となるのではないでしょうか。」
実戦という厳しい現実を知る藤崎師範の言葉は、重く、鋭い。しかし同時に、現代の合気道演武が抱える課題を共有し、その未来に希望を託す言葉には、力が漲っている。
藤崎天敬師範: 「演武と実戦の違いを、それこそ骨身に染みて理解している私ですら、ごく稀に、真に卓越した師範の演武に触れると、『この方の技は、もしかしたら実戦でも通用するのではないか』と、一瞬、心を揺さぶられることがあります。それほどまでに、『本物』の域に達した演武には、抗いがたい魔力、人を惹きつける力があるのです。だからこそ、実戦の厳しさを知らない人が、その華麗さに幻惑され、演武の巧みさを実力と誤認してしまうのも、ある意味、無理からぬことかもしれません。しかし、それは極めて危険な落とし穴です。」
藤崎天敬師範: 「長年、真摯に合気道の道を歩んでこられた一流の師範方の演武には、単なる技術の巧拙を超えた、武道の深遠さ、精神性、そしてその方の人間性そのものが凝縮されています。だからこそ、観る者は心を奪われる。しかし、その輝きに目を眩ませてはいけません。演武の光と影、そして約束組手(基礎)と自由組手(応用)のそれぞれの意義と限界を正しく認識すること。そして何より、演武が持つ『表現』としての可能性を信じ、指導者一人ひとりが自身の合気道を恐れることなく体現していくこと。それが、現代における合気道、そして演武がさらに進化していくための鍵となるでしょう。」
実戦合気道を追求する藤崎天敬師範の提言は、合気道という武道における「演武」という独特の文化、そして稽古体系のあり方そのものに、鋭い問いを投げかけている。美しさの奥に潜む実用性の真実。基礎としての約束組手と、応用力としての自由組手の連関。そして、武道表現としての演武の無限の可能性。この問いは、すべての合気道修行者、そして合気道を愛する人々にとって、改めて深く思考すべき重要なテーマであると言えるだろう。