合気道の真髄に迫る 実戦と伝統、二つの道を歩む藤崎天敬師範が語る「総合格闘技との交差点」とその先【インタビュー第四部】
合気道の世界において、伝統的な稽古体系の継承と、実戦性を追求する革新的な取り組みの両面に深く通じ、独自の境地を切り拓く合気道覇天会の筆頭師範、藤崎天敬氏。第四部となる本稿では、現代武道・格闘技シーンにおいて圧倒的な存在感を放つ総合格闘技(MMA)に対する氏の透徹した視座、武道・護身術としての合気道が持つ固有の価値と未来への展望について、さらに踏み込んで語っていただいた。
総合格闘技への敬意と、武道としての「位相」の違い
インタビュアー: 近年、世界的な規模で隆盛を極める総合格闘技(MMA)について、藤崎師範はどのようなご見解をお持ちでしょうか。その技術体系や競技性について、より詳しくお聞かせください。
藤崎師範:
総合格闘技、その進化と競技レベルの向上には目覚ましいものがありますね。トップレベルのファイターが見せる純粋なフィジカルの強さ、技術の洗練度、そして精神力には、深い敬意を抱かざるを得ません。ただ、私が生涯をかけて探求する武道、特に護身術としての合気道とは、その目指す頂や根底にある哲学が異なると明確に認識しています。これは優劣を論じるものではなく、それぞれの「位相」が異なる、ということです。
MMAは、ルールという枠組みの中で勝敗を決する競技スポーツとしての側面が色濃い。そのための戦略、体力作り、技術選択が存在します。対して、武道としての合気道は、単なる技術の習得に留まらず、生涯を通じた心身の鍛錬、人格形成、そして、万が一の危機的状況、時には生死に関わる局面までをも視野に入れた護身の理合(りあい)の追求を本義とします。
観戦者としては、MMAのスリリングな展開を楽しむこともあります。特に、全盛期のミルコ・クロコップ選手の電光石火の左ハイキックなど、一撃必殺の破壊力には戦慄を覚えました。しかし、これを現実の護身術という観点から評価した場合、例えば寝技無制限というルールには、実用上の懸念を感じざるを得ません。アスファルトの上、複数の相手、あるいは武器の存在といった不確定要素が満ちる路上での闘争において、一対一、マットの上という限定された状況を前提とする寝技に固執することは、必ずしも最善の策とは限りません。その点、大道塾さんが採用されている寝技30秒といった時間制限ルールは、より実戦的な状況変化への対応を促すという点で、護身の観点からは理に適っていると感じます。
私たち覇天会では、実戦における状況の流動性を重視し、固め技(関節技や抑え技)の攻防稽古においても、制限時間を10秒と設定しています。これは、固めることに執着せず、常に次の展開、すなわち打撃や離脱、あるいは他の相手への対処を意識するための工夫です。もちろん、MMAが護身術そのものを目的としていないことは重々承知しており、その競技としての完成度やエンターテイメント性には独自の価値があります。卓越したMMAファイターであれば、その鍛え抜かれた身体能力と攻防感覚によって、護身の局面で極めて有効な対処ができる場面も多いでしょう。重要なのは、武道には武道の、MMAにはMMAの固有の価値と文脈があり、互いの領域を理解し尊重し合う姿勢だと考えます。
合気道家のMMA挑戦:先駆者の足跡と未来への架け橋
インタビュアー: 合気道をバックボーンに持つ選手がMMAに挑戦し、活躍するケースも散見されます。この現象についてはどのようにお考えですか?
藤崎師範:
奥田康則先輩や枝折優士先生のように、競技のある実戦合気道からMMAという異なる舞台に果敢に挑戦し、確かな実績を残された先駆者の方々がいらっしゃいます。彼らの挑戦は、合気道界全体にとって大きな刺激であり、その功績は計り知れません。彼らは、合気道の持つポテンシャルの一端を、異なるルール体系の中で証明しようと試みた、まさにパイオニアです。
特に、覇天会が標榜するような実戦合気道、あるいは競技合気道のように、自由組手や実践的な攻防を稽古の中心に据えている流派であれば、MMAへの適応能力は潜在的に悪くないものがあると推察しています。無論、そのためにはMMA特有のルール、オープンフィンガーグローブでの打撃、ケージやリングという環境、そして何よりもその独特の間合いや攻防のリズムへの徹底的なアジャストメントが不可欠です。合気道の技、例えば小手返しや入身投げが、そのままの形でMMAで通用するわけではありません。しかし、合気道で培われる「崩し」の感覚、相手の力を利用し無力化する「合気」の原理、危機的状況における瞬時の「体捌き」、相手の意図を読む洞察力といった要素は、MMAの攻防においても応用可能なはずです。
ただし、現状を見据えた時、我々実戦合気道家にとっての最優先課題は、他ジャンルへの挑戦よりも、まず自らの足元を固めること、すなわち、実戦・競技合気道の認知度向上、競技人口の拡大です。しっかりとした土壌がなければ、世界レベルで通用する選手を継続的に育成することは困難です。他流試合や異種格闘技戦への挑戦は、その強固な基盤が築かれてこそ、真の意味を持つものとなるでしょう。
「達人」という名の虚像:合気道界が向き合うべき課題
インタビュアー: その一方で、合気道の試合経験が皆無に等しい、特にご年配の先生を、メディアなどが「達人」と祭り上げ、実力差の大きいMMAの試合に出場させるようなケースも見受けられます。これには強い違和感を覚えます。
藤崎師範:
その点については、単なる違和感を通り越して、極めて深刻な問題であると捉えています。どの専門分野においても、その道を代表するに足る人物とは、相応の実績と経験、そして厳しい競争の中で証明された実力を持つ者であるべきです。合気道の試合経験すら皆無な方を、安易に「達人」というレッテルを貼り、実力もルールへの適応も未知数のまま、ショー的な要素でMMAの舞台へ送り出すような行為は、武道の尊厳を軽く見ているもの言っても過言ではありません。
このようなケースで、もし当事者が実力差から一方的に敗北した場合、それは単に個人の敗北に留まらず、プロモーション側の意図はどうあれ、結果的に「合気道は実戦では使えない」という短絡的で誤った認識を世間に広め、合気道全体の評価を不当に貶めることに繋がります。これは、長年にわたり真摯に合気道の稽古に励み、その深化と発展を願う多くの実践者の努力と誇りを、深く傷つける行為と言わざるを得ません。冷静に論理的に考えれば自明のことですが、自らの専門分野である合気道の試合でさえ確固たる実績を残せていない方が、全く異なる競技特性を持つMMAで勝利を収めるというのは、ほとんど奇跡に近い。真の達人とは、自らの力量と限界を客観的に認識し、その技術が活きる適切な場を見極める見識をも併せ持つものではないでしょうか。合気道界自身も、このような安易な「達人」の消費に対しては、断固として異を唱え、武道としての本来の価値を守っていく責任があると考えます。
合気道試合の普及と、多様性の中に輝く未来
藤崎師範:
合気道の試合、とりわけ覇天会が目指すような、より実戦的な自由組手形式の試合が、今後さらに広く認知され、普及していくこと。これが、合気道の未来にとって極めて重要だと考えています。競技としての土壌が豊かになれば、そこから自然な形で、より高いレベルの競争を求めてMMAなどの他分野に挑戦する合気道家も現れてくるでしょう。
例えば、中国武術をベースに持ちながら、独自の競技体系を発展させてきた散打の選手たちが、その打撃技術や組技への対応力を武器に、UFCのような世界最高峰のMMAの舞台で活躍した例もあります。これは、伝統武術が現代的な競技システムと融合し、進化し得る可能性を示唆しています。同様に、合気道の競技性が確立され、才能ある選手が継続的に輩出されるようになれば、将来的には「合気道をバックボーンに持つユニークなスタイルのMMAファイター」として、世界にその名を知られる選手が登場する可能性も、決して夢物語ではないはずです。
しかしながら、繰り返しになりますが、私個人としては、合気道が持つ独自の深遠なる世界観と価値を、過度にMMAという物差しだけで測るべきではない、という思いが強くあります。実戦合気道は、それ自体が独立した護身術として、現実の危機に対応しうる高度な技術体系と理合を備えていると確信しています。
フルコンタクト空手の打たれ強さと一撃の重さ、テコンドーの変幻自在で華麗な足技、柔道の相手を制圧するダイナミックな投げと寝技、そして合気道の相手の力を利用し制する、芸術的とも称される関節技や体捌き。それぞれの武道・格闘技が持つ固有の輝きを尊重し、その多様性を認め合うことこそが、武道文化全体の豊かさに繋がるのではないでしょうか。
合気道は、厳しい武道としての側面、精妙な身体操作術としての側面、そして精神修養としての側面を併せ持つ、他に類を見ない複合的な武道です。私たち合気道覇天会は、この多岐にわたる魅力を深く掘り下げ、伝統に敬意を払いながらも、実戦性を絶えず問い続ける稽古を通じて、現代における合気道の真髄とは何か、その可能性の地平をどこまで押し広げられるのか、という問いに真摯に向き合い続けていきたいと考えています。