「進撃の合気」藤崎天敬――異種格闘との邂逅にみる、武道の真髄への飽くなき探求
福岡の地に、合気道の新たな地平を切り拓く武道家がいる。藤崎天敬(ふじさきてんけい)。合気道流派「合気道覇天会」を創始し、宗家 兼 筆頭師範として最高位範士八段として指導にあたる、現代合気道界の俊英である。180cm、92kgの鍛え抜かれた鋼の肉体から繰り出される技は、合気道選手権大会での優勝3回、準優勝1回、優秀賞1回という輝かしい戦績がその威力を証明する。さらに驚嘆すべきは、彼が修得した武道・格闘技の段位が合計18段にも及ぶことだ。その比類なき実力と圧倒的な存在感から、空手道剛柔会形世界チャンピオン、福山氏によって「進撃の合気」という異名が捧げられたことは、彼の武道家としての特異性を物語っている。
YouTubeチャンネルに寄せられた「何か武勇伝を」という視聴者の問いに対し、藤崎氏は「武勇伝というほど大それたものではありませんが」と謙遜しつつ、自らの武道の探求過程で経験した異種格闘技との貴重な出会いについて語り始めた。その静かな語り口は、聞く者の心に深く染み入り、真の強さとは何かを問いかける。
若き日の藤崎氏。二十歳を過ぎ、二度の合気道選手権制覇を経て強くなり始めていた彼は、さらなる武道観の深化を求め、他流派の門を叩いた。そこは、手刀打ちと柔道的な巻き込み投げを主体とし、古流柔術の系譜を汲む、実戦性を重んじる合気道道場であった。突き蹴りが禁じられ、打撃は手刀のみという特殊なルールの中、藤崎氏は全国大会3位の実力を持つ猛者と相対することになる。相手の土俵、相手の流儀。顔面を狙う鋭い手刀に対し、藤崎氏は卓越した体捌きでこれを冷静にいなし、刹那の隙を見逃さず組み付くと、必殺の絡み回転投げ(その流派では「後ろ腕がらみ」と呼ばれた)を電光石火の如く繰り出した。試合開始から、わずか20秒にも満たない時間であった。相手は「後ろ腕がらみって、本当に極まるんだな…」と、未体験の技の威力に驚愕の声を漏らしたと伝えられる。
その後も稽古において、上段腕がらみや小手返しといった立ち関節技の有効性を次々と証明してみせた藤崎氏であったが、その技の危険性の高さ故、師範から使用を禁じられてしまう。手刀の速さ、巻き込み投げの威力、そして実戦を志向する門下生たちの気概には共感する部分もあった。しかし、中学時代の柔道経験から巻き込み投げへの対処には習熟しており、何よりも自身の合気道の核心と信じる立ち関節技を封じられたことは、藤崎氏にとって看過し得ぬ「道」の相違であった。立ち関節を禁止されたのちに行った、その流派の全国チャンピオンとの乱取り稽古では、投げ技こそ許さなかったものの、手刀の速さと鋭さには目を見張るものがあったという。「組技に関しては特段脅威を感じませんでしたが、手刀の鋭さには学ぶべき点がありました」と藤崎氏は述懐する。当時、短期間ながら非常に実戦的な防具付き空手を学び、全国大会で優秀新人賞と茶帯を取得していた経験から、顔面への攻撃に対する防御の重要性を痛感していた藤崎氏にとって、この経験は改めてその認識を強くさせた。だが、巻き込み投げは柔道で既に十分に体得しており、自身の理想とする立ち関節技が認められない環境では、目指す合気道との乖離が大きいと感じ、短期間でその場を去ることを決断する。「現実的で実用的な技術を持つ、優れた流派だと思います。ただ、乱取りで立ち関節技をほとんど用いない点は、小手返しや腕がらみ、三教などでの制圧を理想とする私とは、目指す方向性が異なりました」と、藤崎氏は当時の心境を静かに語る。
藤崎氏の異種格闘技との邂逅は、これに留まらない。以前YouTubeチャンネルでも語られた、著名な実戦太極拳の指導者との交流もまた、彼の武道観を深く考察させるエピソードである。一般に「型」の修練が中心とされる太極拳において、その先生は約束組手や自由組手(散打・散手)においても卓越した実力を持つことで知られる、稀有な存在であった。当時20代半ばであった藤崎氏に対し、先生は50代前半。太極拳特有の「ポン・リー・ジー・アン」といった相手を崩す技術は熟練の域に達し、そのレベルは型合気道の高段者にも匹敵するほどであったという。組手稽古が常態ではないその場で、若き日の藤崎氏が何とはなしに物足りなさを感じているのを鋭敏に察したのか、先生は不意に「藤崎君、組手(散打・散手)をやってみようか」と声をかけた。その言葉には、実戦を何よりも重んじる真の武道家としての矜持が滲み出ていた。
組手が始まるや否や、先生は巧みに間合いを取りつつ、鋭い二段横蹴りを放つ。その洗練された速さと威力に一瞬の油断も許されなかったが、藤崎氏は冷静沈着にこれを捌き、間髪入れずに懐へと飛び込み、得意とする絡み回転投げを仕掛けた。しかし、百戦錬磨の先生もさるもの、咄嗟に体を捻って抵抗を試みる。藤崎氏はその抵抗する力を巧みに利用し、流れるような体捌きで隅落としへと変化させ、先生を鮮やかに床へと制した。勝負は、まさに一瞬の出来事であった。
少々実力差を自覚した藤崎氏は、その後、先生の顔を立てるべく、あえて攻撃を受ける動きを見せた。しかし、先生はその意図を鋭く見抜き、「藤崎君、途中から手加減をしていたように見えたが…」と穏やかに問いかけた。藤崎氏は「いえ、先生の気迫にただただ圧倒されておりました」と機転を利かせ、その場を収めたという。この深淵なる交流を通じ、先生は藤崎氏が求めるものがこの場には無いと悟り、その旨を正直に伝えた。藤崎氏は、その太極拳教室を後にすることになるが、先生の確かな経験と武道家としての高潔さ、そして何より、20歳以上も年下の挑戦者に対し、自ら組手を申し出たその度量の広さに、深い感銘と敬意を抱いた。「先生は決して戦えない方ではありませんでした。型も見事、約束組手も巧みで、何より20歳以上も年下の私に、ご自分から組手を申し出てくださった。その心意気と実戦武道家としての矜持に、学ぶべきものを強く感じました。年齢という要素は勝負に影響したかもしれません。ですが、精神的な部分で、私自身が見習うべき点がありました」。ちなみに、その教室の他の生徒からは「先生は発勁 の技は、あの時使っていなかったから」という声も聞かれたという。この逸話は、藤崎氏が中国武術の多様な強豪についても深い知見と敬意を持っていることを示唆している。
これら二つの異なる武道との邂逅は、藤崎天敬という合気道家の卓越した実力を証明するものであると同時に、それ以上に、彼自身の信じる武道の理想に対する真摯な姿勢と、その真髄を探求し続ける飽くなき探求心を鮮明に映し出している。「進撃の合気」の異名を持つ彼の武道人生は、これからも様々な出会いと挑戦、そして深い内省を経て、さらにその輝きと深みを増していくに違いない。